幕末の志士「坂本龍馬」が愛用した、龍紋様の碗「望龍碗」を現代に再現しました。
そして、その龍紋様を写した器を現代に蘇らせて、今は伝説と成った幕末長崎の香りをお送りします。
慶應三年三月、龍馬は下関の「自然堂」に妻の「お龍」さんを残し『大政奉還』へと日本を導く旅に出ます。
その折に、長州の朋友「印藤聿」へ愛用の飯碗を贈っています。
贈られた碗こそは、割れてもなお「焼継ぎ」し、使用していた愛用の蓋付飯碗「望龍碗」なのであります。
龍馬と『やきもの』との関係は。縁遠く思われますが、釉中に浮遊する「龍」こそが「龍馬」の昇竜の源だった、と思えて成りません。
「必ず、必ず帰る」との言葉むなしく同年十一月十五日京都「近江屋」で刺客に襲われ凶刀に倒れます。「望龍碗」を手離したが故に「龍馬」の命が絶たれとしたら、「龍の碗」の持つ不思議な力を感じずにはいません。
『日本陶磁器史論』(明治36年・北島似水著)によると、長崎奉行は平戸藩の窯業事業が盛況で、製品が出島より輸出されている事をうらやみ、平戸焼を手本として窯業事業に着手したと記述されており、亀山焼の原材料には、天草陶石と網代陶石を混ぜて使用したとあります。
網代陶石は、平戸藩の領地から産出され、当時、西欧で絶賛され、出島から盛んに輸出されていた『卵殻手(極薄手の磁器)』の原材料であります。
つまり、長崎奉行は、平戸焼の原材料をとりよせ、平戸焼(三川内焼)と同じ品質の磁器を焼きたかったのです。
このことは、亀山焼と三川内焼が、原材料的にも、意匠的にも、類似している事をさします。亀山焼は、現在は途絶えてしまっていますが、その目指すところは、三川内焼に今も受け継がれていると言えます。
長崎奉行の威信にかけて創設された名窯「亀山焼」を、縁ある三川内焼の技法で再現し、龍馬の愛用した器に踊る「龍の紋様」に着目して、現代の器としてプロデュースしました。長崎の伝統ある文化として、亀山焼の歴史を今に伝え、竜馬の伝説と共に末永く皆様に愛される器でありたいと思います。