古平戸の美 研究室

古平戸の美 研究室

豊寿斉1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真の卵殻手は、十三代平戸藤祥作

福本源七1

源七氏は三川内山に
生ま
れ、ひねり細工の
名人「今村良作氏」より
陶磁器彫塑を学ぶ。

 「従良」と号を称し
明治二十三年、
松浦伯東京邸内御庭焼
を拝命す。

その後、諸国を歴遊し
陶製の「十六羅漢」・
「五百羅漢」などを関東
の寺院へ制作安置した。

 「三川内山天満宮・
なで牛」も大正三年に
一時帰国した折り制作。

現今三川内山のパワー
スポットの一つとなっ
ている。

源七氏の制作した
「陶・塑造」は、
まさに天賦の才が在り、
その技を超える者は、
未だ出ていない。

 

三川内の大正期を彩る
伝説の陶人・文化人

 

山本真瑞
きび国出身の書家
大正期に三川内に住み
三川内山の陶工師達と
交わりをなす

 

池田直之助
明治期の三川内山
ろくろ師。
当時の皇室献上品、
内外博覧会への出品は、
氏の手によるもの多し。

 

 

三川内焼の陶租
「如猿」の父が手植えしたと伝わる
この松は、三川内の霊木でしたが
昭和40年代に三川内焼が有田焼 として流通
すると 枯れてしましました。

約400年前、いにしえの思い今もなお燃えさかり…

 
柞灰使用

三川内焼では、元来「柞灰」を釉薬の原料として使用して
きましたが、昭和初期より「石灰釉」にとって代わります。

「柞灰釉薬の絵付け」と「石灰釉」による絵付けの写真

写真を見ただけでは、区別がつきませんが、光をあてたり
触ってみると容易に判断できます。

特に石灰釉は、「ピカピカ」で照明の状態では、美しく
見えます。ですが、

「ヒカリモノ全てが金ではないのです」

 

石灰釉

 この事に気づく人は、その他の事象への関心も
高い人です。「柞」を釉薬に用いるのは、
日本「肥前磁器」の特徴ですから「日本の心」を
内に秘めたる人ではないでしょうか?

自然の灰で作られた「磁器」は、決して冷たい物
ではなくむしろ、温かさを感じ入る事ができます。

食器に四季を感じる「日本の心」を
大切にしたいと思います。

本年度(H・24)秋、10月6日より「九州陶磁器文化館」にて
日本の「官窯」の特別展が開催されます。我が平戸焼(三川内焼)
も勿論展示されますが、日本の官窯「平戸焼」についてお話します。

三川内焼は、江戸時代に鍋島(有田焼)と並び称されるほど高く評価
を受けて いました。
その技法は、お殿様焼と称されるように大変時間のかかる 仕事をして
います。

私は、過去の献上品を見るに至って、つくづく内に思う物があります。
それは、作り手として「いろいろな技法」で支えられている事を、その
作品から見て取れる事です。

ただ見る作品の素晴らしさと合わせて、作品を支える「技術」の高さを感じられる物こそ「迫力」を持って迫ってくるのです。

多くの人は、作品の大きさにその迫力を感じますが、小さくても「技術」の高さから「迫力」を
受ける作品も多くあります。

最高権力者への「献上品」には、作者の「こころいき」を感じ取る事が出来るのです。

そこには、ある種の「美」が存在している様な気がしてならないのです。何やら「数学的な…」…
その「心意気」を感じられる者は、作り手だけでしょうか?

いいえ、大作曲家の芸術を現代の演奏家の手で感動できるではありませんか。
今に生きる「作り手」には、「美」を伝える大きな役目もあるのでしょう!

平戸藤祥
 

 

「はまぜん」とは肥前地区の窯業界で、本焼き焼成時(1300度)に焼き物の下に敷いて焼く丸い富士山の様な形をした窯道具の事(写真)です。

一度きりの使い捨てで、使用目的は「歪み防止」に用います。
磁器は、焼成で10%ほど収縮するので上に乗っている焼き物と同率で収縮することが、歪み防止となるのです。

では、何故「はまぜん」と呼ばれるのでしょう?

子ども達が、使用後の「はまぜん」を「お金」に見立てて遊びに使ったから?など言われておりますが…

実際は、「破魔矢」の破魔(ハマ)から来ているのです。
魔を破壊する「銭」が「はまぜん」なのです。ゆがみや割れを救ってくれる窯道具これが「はまぜん」なのです。
先人達の思いを請け作陶に励もうと思います。

2012、正月

 

ひねり物とは、三川内で呼ばれる「小物彫刻・彫塑品」
です。卵殻手が海外で高く評価された同じころ、
「ひねり物」も多く輸出されました。

西洋のシンメトリーに成った造形物とは異なり、
「ユニーク」と評価されました。

現代、ギメ美術館などヨーロッパ、アメリカの博物館でも
展示されております。
ヨーロッパには三川内の「ひねり物」が博物館を始め骨董街にも多く存在します。

今でこそ石膏の型で大量に作れるので、色んな磁器製の置物が存在しますが江戸時代には石膏の使用はされておらず一個づつ手作りだったのです。

三川内ではそれを承知で「ひねり物」を多く輸出しております。

それは、網代陶石と大きく関係しています。網代陶石は、他にない微妙な粘りが有ります。
この陶石を使う事で他産地にはない磁器工芸が発達しました。
成形の容易さと乾燥収縮で割れない磁器土、「夢のような磁器土」。そんな土を三川内焼きは持っていたのです。

でも…石膏型の普及から「ひねり物」を始め多くの「陶磁器技術」が失われてしまいました。
同時に網代陶石の存在も忘れられてしまいました。

平成の今、新しい息吹をこの土に吹き込んで新たな磁器の世界を構築したいと思います。

 


三川内には400年の歴史に恥じない「名工」達が大勢います。
池田安次郎もその一人です。
卵殻手は、三川内での伝承によると「文化・文政」(1804~1829)の時代に形作られ天保年間(1830~1843)完成した。
と言われ、「ごくわずかの工人のみが成形できた」と伝え聞きます。

池田安次郎も卵殻手製作の名人であって、決して発案者ではないのです。
ネットの危うさで「1837(天保8)年に平戸焼の名工・池田安次郎が初めて製作したと伝えられる」との記述が流布しておりますが、池田安次郎を含めその他多くの工人たちが成し得た「卵殻手」の技は「三川内焼」の「宝」として伝承されるべきものだと確信しております。

その卵殻手を定義すると

1.網代陶石を使用する。
2.手作りで成形する。
3.起こし焼きで焼成する。
この三つの技の完成には、磁器焼成の頂点を極めたものだけがたどり着ける境地なのです。

私も早く、そうなりたいものです。

また、絵付けの工人にも、その名を轟かせた人がいます。

森利喜松は、明治期の万博出展の絵付けを担当し、「三川内焼」のみならず「有田焼」「香蘭社」の明治10年~20年の金襴手錦は、氏の手によるものであります。

右写真の金襴菊絵を見るとその実力のほどが伺え当時の「有田焼」には、有田で生まれた絵の具へのこだわりのためか?「金襴手」は、三川内、九谷、から遅れを取る事に成ったと思われます。

我が「三川内」に金襴手上絵が定着しなかった事が悔やまれて成りません。

 

置上技法(おきあげぎほう)

土を少しずつ筆先にのせ盛り上げて「レリーフ」を施した文様は、江戸中期(1680年頃)より三川内で完成された技法で「置上」(おきあげ)と呼ばれました。(土を置いて上げる技法から、そう呼ばれている)
また、海外でも注目され西洋磁器の中で最高の技法である「パテ、シュール、パテ」(天使の技法)へと発展しました。

この置上技法による美術品は、現代の大英博物館をはじめ欧米の著名な美術館にも所蔵され高い評価を得ておりますが明治初年頃よりその技術は久しく途絶え伝承されていませんでした。
その理由は、石膏型の普及にあります…、石膏型によって容易になっていく技法的模倣は真の姿を隠していきました。

「置上」でしか出来ない「逆こうばい」の付いたレリーフのリアルな表現と「浮き彫り」の部分の土を変える事によって生まれる微妙な遠近感は、石膏型はおろか単なる磁器の彫刻作品とも違う異次元の世界なのです。

また、置上の技法は、「貼り付け彫刻」技法からの発展と思われます。
他産地の作品の多くは、レリーフの部分が割れたり剥がれたりしていますが、三川内焼の「置上」・「貼り付け」は、一体化しており他産地を寄せ付けぬ技術の高さが分かります。

私は、この置上彫刻の美しさを多くの人に知ってもらいたいと思いここに紹介しました。

製品情報

卵殻手

side01

古平戸

side02

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